でも、その笑顔はほんの一瞬しか続かなかった。再び、弥生の心に瑛介への心配が押し寄せてきたのだ。そんな彼女の表情の変化に、さすがに気が利く健司はすぐに気づき、すぐさま声をかけた。「ご安心ください、霧島さん。社長は、確信がないことは絶対にしない方ですから」「うん、わかった」弥生は頷いた。彼と付き合いの長い彼女には、それが事実であることはよくわかっている。瑛介は、常に綿密な計画と確信のもとに動く男だ。それでも、弥生は心配していた。実際、瑛介が現場に残ったことで、こちらの逃走は驚くほど順調だった。無事、安全な場所に到着し、健司は弥生たち三人を部屋に送り届けた。すでにかなりの時間が経っていた。健司が部屋を出ようとしたとき、弥生はふと呼び止めた。「彼......いつ戻ってくるか、わかる?」「それが......」健司は少し困ったように首を振った。「正確にはわかりません。ただ、片付けが済み次第、すぐに戻るとだけ......」「まだ、連絡は来てないの?」「霧島さん、ずっと一緒に行動してましたよね? 今日、僕のスマホが鳴ったのは一度だけ。それも、尾崎さんからの電話です」その言葉に、弥生の目に宿っていた微かな光が、そっと沈んでいった。ちょうどその時、健司のスマホが鳴り出した。弥生の顔がぱっと明るくなった。「彼からの電話?」だが、健司が画面を確認し、すぐに答えた。「いえ、違います」その瞬間、弥生の輝きかけた目が、また静かに暗くなった。「......そう」健司は画面を見ながら、少し申し訳なさそうに尋ねた。「霧島さん、他にご用がなければ、そろそろ私は失礼します」「ええ」弥生が頷くと、健司は静かに部屋を出ていった。その後、弥生は大きくひとつため息をつき、扉を閉めた。部屋の中はきれいに整えられていた。最初は、避難のために用意された部屋だと思っていたが......中に入ってクローゼットを開けた瞬間、それが間違いだったと気づいた。そこには、きちんと整理された男性用の服が並んでいた。これは、瑛介の部屋だ。健司は、彼女たちをそのまま瑛介のプライベートルームに案内したのだった。すでに夜も更けていた。今日一日、子供たちはずっと走り回っていて、ぐったりと疲れきっ
自分の名前が呼ばれるのを聞いて、弥生は顔を上げ、健司の方を見た。「誰から?」健司は携帯をそのまま彼女に差し出した。「霧島さん、尾崎さんからです」「由奈?」その名前を聞いた弥生は、すぐさま携帯を受け取った。「由奈!」「弥生!!」受話器の向こうで、周由奈の声は弥生以上に興奮していた。「瑛介がついにあなたを見つけてくれたのね! 本当にごめん、道中で車が故障してしまって......もう最悪。助けに行くタイミング、完全に逃しちゃって......でも、本当に良かった!瑛介が間に合って!」「故障してたの?」やっぱり......だからずっと来なかったのか。「今はどこにいるの?」「大丈夫、うちの社長がいるから何とかしてくれるって。それに、ちょうど健司の電話が繋がって、こうして話せてるし」「それなら良かった」「こっちが落ち着いたら、すぐ会いに行くから!」「うん、待ってる」ふたりは少し会話を交わしてから電話を切った。車が故障していたという由奈の事情もあり、今は無理を言うわけにもいかない。携帯を健司に返しながら、弥生はふと疑問を口にした。「......どうやって私の居場所を見つけたの?」健司は携帯をしまいながら、穏やかに答えた。「ずっと尾崎さんが情報を提供してくれていたんです。旅館にいるという情報が入ったとき、すぐに駆けつけました。ですが、到着した時点では霧島さんの正確な場所までは分かっておらず......その後も、尾崎さんが電話で知らせてくれたおかげで、ようやく辿り着けたんです」「なるほどね」それを聞いて、弥生もようやく全貌を理解した。瑛介はずっと自分を探していた。ただ、自分がそれを知らなかっただけ......彼に連絡しようとしたとき、彼は電話に出なかった。だから弥生は、それ以上瑛介に頼ることを避けた。せっかく助けを求められる数少ないチャンスを、無駄にしたくなかったから。そんなことを考えていた弥生に、健司がタイミングよく訊ねた。「......霧島さん、どうして社長に連絡しなかったんですか?」「連絡したわよ。でも出なかったじゃない。それに、私はあの時かなり危なかったのよ」弥生がそう答えると、健司は少し気まずそうに鼻をこすった。「......その件については
弘次の命令を受けて、連中たちはついに満足げな笑みを浮かべた。彼は視線を弥生に向け、大きく腕を振り上げて叫んだ。「行けーっ!!霧島さんと子供たちを、黒田さんのもとに取り戻せ!」その瞬間、弥生は何かがおかしいと直感した。言葉を発する間もなく、腰をすばやく瑛介の腕が引き寄せた。「行くぞ」彼の声と同時に、弥生は慌てて陽平の手を引いて踵を返した。「奴らを止めろ!」普段は穏やかな健司も、怒声を張り上げて追いかけてくる。出発前から想定していた、もし衝突が起きた場合、最優先すべきは弥生たちを安全に脱出させること。そのために、誰かがその場に残って戦線を引き受ける必要がある。弥生も、敵が動き出したのを見て、彼らの意図を悟った。気づいたときには、すでに車に押し込まれていた。まだ座りきられていないうちに、ひなのと陽平も一緒に車内に入れられ、健司がすぐに助手席へと乗り込んだ。弥生は当然、瑛介も一緒に乗ると思っていた。だが彼はドアを閉めもせず、立ったままそこにいた。「あなたも来るんでしょう?」彼女の目が不安そうに彼を見つめた。「健司が君たちを安全な場所に連れて行く」弥生の眉がきゅっと寄った。「......じゃあ、あなたは?」「僕の方のケリがついたら、すぐに向かう」弥生は唇を噛みしめた。何と言えばいい?「一緒に来て」と懇願すればいいのか?「あなた......」言葉に詰まる彼女の唇に、突然瑛介の顔が近づいてきた。彼の大きな手が彼女の後頭部をそっと押さえ、そのまま彼女の唇にキスを落とした。思わぬキスに、弥生は息を呑んだ。反射的に突き放そうとした時には、彼はもう唇を離していた。けれど去らず、額を彼女の額にそっと押し当てたまま、かすれた声で囁いた。「待っててくれ」そう言って、ゆっくりと彼女の後頭部から手を放し、健司に向かって命じた。「彼女と......僕の子供たちを守れ」健司はすぐに頷いた。「任せてください。命に代えても、霧島さんをお守りします」そして、瑛介は弥生の視線の中、静かにドアを閉めた。弥生は窓に張り付き、彼の姿を見続けた。その体が視界から完全に消えるまで......「霧島さん、ご心配なく。社長ならきっと無事です」前席から健司の声が優しく響い
遠く離れた場所から、弘次はふたりの密なやりとりをじっと見つめていた。その手は知らぬ間にぎゅっと拳を握りしめていた。自分のそばにいた時、弥生は一度でもこんなふうに、静かに、心を開いて話しかけてくれただろうか?胸の内で嫉妬が急速に膨れ上がってきた。それはまるで、瞬く間に心を覆い尽くす巨大な樹木となっていった。その様子をそばで見ていた部下の目が鋭く光った。「やはり霧島さんたちが傷つくのを心配されてるからでしょう?でも実際は、うちの連中も、向こうの連中も、誰も霧島さんに手出ししたいわけじゃないんですよ。つまり、もし戦闘になったとしても、彼女と子供たちは安全ってことです」「でも、動かずにいればこのままずっと膠着か、向こうが彼女を連れ去って終わりです」弘次は沈黙を保っていた。確かに、今まさに決断に迷っているようだった。部下は彼が揺れているのを感じ取り、さらに言葉を重ねて煽った。「よく考えてください。もしあのまま霧島さんを連れて行かれたら、次はもうないかもしれません。今しかないんです。今ここで手を打たなければ......」「これが最後のチャンスなのかもしれない」その言葉が、弘次の心に深く突き刺さった。彼の視線は、瑛介に手を引かれている弥生の細い身体に向けられていた。薄い唇は一文字に固く結ばれていた。そうだ。これが最後の機会かもしれない。もし今、彼女を瑛介に連れて行かれてしまえば、もう二度と、自分のそばに戻ってくることはないだろう。「みんな揃ってます。あとは黒田さんが命令を出せば、命を懸けてでも彼女を奪い返してきます」「奪い返す」という言葉が、まるで刃のように弘次の胸を貫いた。「人数はうちの方が多いんです。絶対に成功します。もう、迷う必要はありません」しかし弘次の視線はまだ、弥生と瑛介がつないだ手を見つめ続けていた。もし、今、彼女の隣に立っているのが自分だったら。もし、自分が彼女の手を握ろうとしたなら、彼女は応じてくれただろうか?......いや、きっと無理だ。きっと眉をひそめ、迷いもなく手を引くだろう。五年の時間を重ねても......彼女の心は、少しも自分に向くことはなかったのだ。この五年間、自分は彼女の心を少しも温められなかった。そんな回想だけでも、胸がずきずきと
彼女が帰国したのは、決して瑛介とよりを戻すためではなかった。事態がここまでになったのは、まったくの偶然だった。まさか弘次が自分を軟禁し、さらには友作にまで手を出すなんて、弥生は想像すらしていなかった。それを思い出したとき、彼女はふと自分を助けて逃がしてくれた友作のことが気になり、口を開いた。「友作は......どうなったの?」その問いに、弘次は口元に薄い笑みを浮かべた。「友作?弥生、もし彼のことが気になるなら、僕と一緒に戻ろう」弥生は唇を結んで答えなかった。彼女がまだ答えぬうちに、瑛介の腕が腰にまわってきた。力がこもっていた。冷たい声が響いた。「彼女を連れて行く?その考えは捨てろ」弘次は弥生にだけ視線を向けたまま、にこやかに言った。「弥生、僕は他人の言うことは聞かない。君だけが答えをくれればいい。どうなんだい、僕と一緒に戻る気はある?君さえ戻ってきてくれれば、友作の身に危害を加えるようなことは絶対にしないと約束するよ」「それって......脅迫してるの?」弥生は眉をひそめた。「彼は君の助手でしょ?私のじゃない」弘次はあっさりと頷いた。「もちろん、彼は僕の部下だ。でもね、部下でありながら大切な人を逃がすなんて、許されると思うかい?もし彼を罰しなければ、今後他の連中も同じようなことをし始めるだろうね」弥生はすぐに気づいた。弘次は、友作を人質にして自分を脅そうとしているのだ。今、彼には他に使える手札がない。彼女の感情につけこむしかないのだ。でも、そうであるなら、逆に言えば友作が無事でなければ意味がない。彼女を縛る駒がなくなるのだから。それに気づいた弥生は、冷たく言い返した。「......まさか、私が友作を心配してるから戻ると思ってる?だったら最初から、私は友作と一緒に逃げたりしなかったわ。彼は覚悟してくれてたの。私は彼の気持ちを裏切らない」その言葉に、弘次はしばらく何も言わず、ただ唇をわずかに歪めて笑った。「そうか......」その声には、まるで感情がこもっていなかった。「じゃあ、もう彼には用はないね」その一言に、弥生の心は急激に冷え込んだ。嫌な予感が胸をよぎった。普通なら、自分の助手にそこまで非道な真似をするはずがない。けれど彼の過去を思えば、そんな常
「行こう」弥生は陽平の手を引き、その場を離れようとした。だが、出口に差しかかったそのとき、彼らの前に大勢の男たちが立ちはだかった。完全に包囲された。その光景を見て、弥生の心は一気に冷え込んだ。「彼の部下たち......」瑛介は反射的に彼女を自分のそばに引き寄せ、しっかりと腕に抱いた。「僕がいるから、大丈夫」その言葉を聞いた弥生は、思わず彼の胸に身を寄せた。唇を引き結び、そっと聞いた。「......通報してないよね?」瑛介は一瞬だけ動きを止め、弥生を見下ろした。「なんだ、俺が通報してあいつを捕まえるのが怖いのか? 心配してるのか?」その暗く深い瞳に見つめられて、弥生は目を伏せた。「彼は......昔、たくさん助けてくれた。私は、彼を傷つけたくない」「でも今、あいつは君を傷つけてる」「彼は、ただ私を連れ去っただけで......私にも子どもにも手は出していないわ」弥生はきっぱりと言った。瑛介は眉をわずかにひそめた。通報していなかったとはいえ、彼女が目の前であいつを必死にかばい、言い訳のように擁護する姿を見ると、心の奥にどうしようもない苛立ちが湧いてきた。そのとき弘次がゆっくりと歩み出てきた。彼の視線は正確に弥生を捉え、他の誰を見ることもなく、ただ彼女をじっと見つめ続けていた。まるで、瑛介など眼中にないかのように......その視線を受けた弥生は、思わず目を逸らそうとしたが、瑛介が彼女をさらに強く抱き寄せた。まるで彼女は自分のものだと宣言するかのように、独占欲の強さがその腕に表れていた。弘次の視線がようやく瑛介の腕、彼女の柔らかな腰に回された大きな手に移ると、彼の目が少しだけ動き、ついに瑛介と視線がぶつかった。しばらくの沈黙の後、弘次が薄く笑った。「久しぶりだな」だが瑛介は冷たい視線を返すだけで、挨拶に応じることはなかった。「瑛介、久しぶりとはいえ、いきなり弥生を連れて行こうとするのは、礼儀がなさすぎるんじゃないか?」「弥生は君の女か?」瑛介は鼻で笑った。「いつから彼女が君のものになったんだ? 俺は初耳だな」ふたりの間には一気に緊張が走った。連中も、それぞれが臨戦態勢に入り、一触即発の空気が張り詰めた。そのとき、弘次のそばにいた、以前に友作の悪口を